固倫公主に叙せられた恭親王の嫡女、道光帝と静皇貴妃・博爾済吉氏の孫。親王嫡女で本来なら郡主。ともに政変を起こした西太后も、途中からは恭親王を牽制。それでもその娘に当たる大格格こと荣寿公主には甘かったようで、恭親王死後は後宮に引きとり養育したそうです。
今ネットで見ると「清朝でもっともブサイク(丑)な公主」などと揶揄されていますが、そもそも写真のある公主に限りがあるし、70歳までお元気だったので伝世の写真は晩年。それだけで容貌うんぬんするのもどうかと。
清史はもうできた?まだ?ともあれ清史稿(※)に載せられた最後の固倫公主、かつ清朝公主。八大臣の一人、景涛の息子に下嫁するも、夫の富察・志瑞は婚後半年で早世(1871年逝去)。人生の大半を寡婦として過ごすという西太后らと似たパターン(同治帝薨去時、西太后26歳、東太后24歳)。
そして迎えた1912年、清朝は滅亡。還暦近くなっていた荣寿公主、どんな気持ちで迎えたのでしょうか。そして、しばらくは居住を許されていた皇族がいよいよ紫禁城から退去となったとき、同治・光緒帝の四大太妃を屋敷(公主府)に引き取り看取っています。ある程度の資産があったのか、幕引き担当として‥。
回顧録を書いていてくれたらとも思いますが、そんなことはしないのが清朝公主の誇りかもしれません。亡くなったあと、陵(皇族らの大規模な墓)には入らずとも墓は造設‥しかし今や上に水道施設が建てられ跡形もないらしい。ブスブス言われ墓はそんな扱いって!
※中国では王朝史は滅亡後100年後を目安に編む傾向があり、清は他の王朝よように「清史」でなく、その草稿の「清史稿」がもっぱら引用されてきました。そろそろ出来てるとおもうんだけども。
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